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静岡病院150年の歴史


明治・大正:1869年(明治2年)-1925年(大正14年)

1869年(明治2年)2月21日 藩立駿府病院として開院

静岡病院のはじまり
15代将軍徳川慶喜による大政奉還後、1868年(明治元年)16代目徳川家達が駿河藩主に就いた。これに伴い、徳川家の家臣が江戸から駿府に移住したが、この中には優れた侍医団がおり、後に初代病院長となる林研海(はやしけんかい)を始めとした蘭方医(西洋医)がいた。この蘭方医を中心として、翌年1869年(明治2年)2月21日、四ツ足御門外(現追手町日赤病院辺り)に静岡病院の前身である藩立駿府病院が設立された。同年6月、駿府は静岡と改称し藩名も静岡となったため、病院名も藩立静岡病院となった。
明治政府が西洋医学の採用を布告したのがこの前年、漢方医学が圧倒的支配をしていた当時、静岡病院の設立はこの静岡の地に文化的衝撃を与えると同時に静岡は医療最先進地域になったといえる。
医学教育、診療をすべてのひとに
駿府奉行のお達しとともに出された開院布告書には、身分性別住所を問わずやる気のある方は平等に医学教育が受けられること、病気で診察を希望する患者には平等に治療を行うこと、生活に困っている患者には無料で薬を提供すること、病院に来ることができない患者には往診もするということが書かれている。藩立駿府病院は開院と同時に寄宿舎を新築して医学生を募集すると同時に、天然痘に対する予防接種を実施した。明治政府が種痘の普及の通達を出したのが翌年、公衆衛生事業にも注力していたことがうかがえる。
初代病院長 林研海について
幕府奥医師・林洞海の長男として東京に生まれ、新しい西洋医学を学ぶため満17歳の時長崎に遊学した。研海は、オランダ海軍軍医ポンペに師事、翌年江戸幕府の命により本邦初の公費留学生として榎本武揚らとともにオランダに向かった。途中船が難破する等の苦難を経て7ヶ月をかけてオランダに到着した。オランダではポンペの指導の下、ハーグにて物理学、化学、生物学を学び、後にデン・ヘルダーの海軍病院で医学を学んだ。帰国したのは1868年(明治元年)、既に幕府は崩壊しており、徳川家家臣とともに駿府へ移り、翌年(1869年(明治2年))藩立駿府病院の病院長に任命されたのは満24歳の時だった。しかし、1871年(明治4年)に陸軍一等軍医正として明治政府に出仕することになり、静岡を後にした。翌年、政府の命により医事研究のため欧米に遊学、1877年(明治10年)の西南戦争では野戦病院を指揮し、第2代陸軍軍医総監となった。1882年(明治15年)、外遊中のパリで腎不全のため客死(満38歳)、パリの南モンパルナス墓地に埋葬された。

初代病院長 林研海

初代病院長 林研海

廃藩置県と公立静岡病院
初代病院長林研海が静岡を去った翌年、廃藩置県(1872年(明治5年))を契機に病院は廃院となった。その後は暫く病院がなく、町民は不便を感じていたため、旧病院の医員らが県に申請し、県の補助を得て1876年(明治9年)、公立(県立)静岡病院として屋形町に開院した。開院と同時に顧問として迎えられたカナダ人宣教医デビッドソン・マクドナルドは、週3日無償で診療に従事し、多くの患者に慕われていたという記録が残っている。

明治9年開院時の公立静岡病院

明治9年開院時の公立静岡病院

県下初の市立病院へ
1882年(明治15年)、県は財政難のため県立5病院を廃止し一時郡立に移管となるが、1889年(明治22年)静岡市制の施行に伴い静岡市に移管され、1905年(明治38年)、市立静岡病院と改称された。また、同年の静岡大火で病院は全焼し急造、大正3年~5年にかけて病室2棟、附属建物を新築、1924年(大正13年)にようやく本館が竣工した。屋形町の本館は70年間に亘って医療に貢献したが、昭和20年の静岡大空襲で焼失した。

大正13年新築の病院本館

大正13年新築の病院本館

昭和:1926年(昭和元年)-1988年(昭和63年)

激動の時代 戦災を乗り越え、発展期を迎える

静岡大火と戦前期
昭和15年1月に発生した静岡大火により、市の中心街の大部分が焼失したが、当院は危うく類焼を免れた。しかし、この大火によって市内の29医院、179床が焼失したため、入院・外来とも患者が激増し、急きょバラック病棟3棟50床を建築し診療にあたった。
当時の病院規模について、大正から昭和初期の病棟改築に伴い、診療科の新設も相次ぎ、7診療科(内科・外科・耳鼻科・産婦人科・小児科・眼科・皮膚科)となり長く戦後まで続いた。また、昭和17年頃の記録によると、建物は木造2階建、病床数116床のうち6割以上を結核病床が占めていた。

昭和17年頃の病院正面玄関

昭和17年頃の病院正面玄関

第二次世界大戦期へ突入
戦局の拡大に伴い、病院から軍医として応召される医師が増え、スタッフ不足により産婦人科等診療科の閉鎖が余儀なくされた。遂に太平洋戦争末期の昭和20年6月、アメリカ軍のB-29爆撃機137機により静岡市街地に焼夷弾が投下され、当院を含む市内27,000戸が焼失し、一夜にして廃墟と化した。この空襲により、看護婦7名、看護婦養成所生徒1名、入院患者2名が犠牲となった。(=静岡大空襲)

空襲直後の静岡市

空襲直後の静岡市

巴町仮病院時代を経て追手町現在地へ
病院焼失後は、約1年間、市内施設を転々としながら診療を続けたが、終戦後翌昭和21年6月、巴町の隣保館(母子寮の様なもの)を改造して、24床と手術室を持つ仮病院を開設することができた。また、軍医として応召されていた医師も復員、日常診療にも活気が戻りつつあり当院の戦後再建の再スタートとなったこの巴町時代はこの後5年3ヶ月続くこととなった。
昭和26年9月、追手町の県立静岡中央病院が鷹匠に移転したことを機に、この跡地に移転した。移転後は約7年をかけて南病棟の竣工、中・北病棟の改築と同時に戦後初となる新科・呼吸器科を開設した。これら病棟整備が終わった昭和34年、総合病院として認可がおりた後も、整形外科、マッサージ室、心臓病センターを設ける等院内整備が進んだ。

昭和26年当時の病院

昭和26年当時の病院

戦後第二の苦難期から発展期へ
大学闘争が激化した昭和43年頃、当院も組合運動が激化し、大学からの医師補給が止まり、診療科の閉鎖も発生する事態となった。また、追手町へ移転後着々と院内整備が推進されたが、高度成長期の最中、市内他病院が新改築を進め、戦後の仮設のような本館では到底通用せず、経営は厳しい状況が続いた。
しかし、病院東側の財務局が移転したことから、本館改築事業を着々と進め、昭和49年、工事費15億3,110万円、医療器械6億円の大事業で395床の新本館(旧東館)が竣工した。その後は患者の増加に伴い好調な経営に恵まれ、職員数の増加、診療科の新設も相次ぎ順風満帆の発展・成長期を迎えた。ただこれに伴い、既存の病棟の老朽化、機能的不備、耐震性に加え病床不足が目立つようになり、昭和60年に病院改築工事を着工、診療科新設、院内制度整備、モービルCCU稼動等ソフト面でもさらなる整備を進めた。

昭和54年当時の病院

昭和54年当時の病院

平成:1989年(平成元年)-2019年(平成31年)

時代の変化に適応し、地域のための総合病院としてさらなる進化を

病院大規模改築と平成不況
昭和60年の着工から4年をかけて、西館、立体駐車場、東館改修工事が平成元年に完成し、600床となった。オープンシステム、救急部門24時間体制、訪問看護制度のスタートや各種運営業務委員会の拡充強化、教育研修行事の充実等を図った。この他、外来の待ち時間短縮を目指した再診予約制等の実施や外来処方オーダリングシステムの導入した。しかしながら、平成3年のバブル崩壊後、日本経済は不況の波をかぶり、当院も影響を受けることとなった。さらに1年の猶予期間をおいて平成6年には完全週休2日制が導入され、外来・入院とも患者数減少となり、厳しい経営状況が続いた。

平成元年当時の病院(西館竣工)

平成元年当時の病院(西館竣工)

一方、医療情報の一元化、業務の能率向上、迅速化等を図るため平成6年に始動したオーダリングシステムは、開始1週間はトラブルが続いたもののその後は予想以上に順調に運営し、調剤・会計の待ち時間は大幅に短縮される成果を得た。また同年1月に発生した阪神・淡路大震災では、当院から医師・看護師・事務職等が救護班として派遣され、かねてから地震の危険が指摘されている当地域にとって対策を見直す好機となった。
地域に必要とされる病院を目指して
平成11年に病院創立120周年を迎え、「静岡がほしがる病院に」という理念のもと、市民公開講座の開始、地域医療支援室設置、地域医療支援病院・地域がん診療連携拠点病院の指定等、地域医療との連携及び市民のための活動を推進した。また、再び平成9年以降結核感染者が増加し、厚生省(現厚生労働省)が「結核緊急事態宣言」を発表、国をあげての結核対策に取り組んだ。一方当院では、平成11年、第二種感染症指定医療機関として指定を受け、6床の感染症病棟を設置した。平成15年4月には清水市との合併が行われ、静岡市は二つの自治体病院を持つこととなった。
また同年9月、第三者評価機関である(財)日本医療機能評価機構により当院初の病院機能評価の認定を得たことは、職員の意識改革にもつながる機会となった。平成20年には移転した保健所の跡地に建築した新東館が完成し500床となった。建物は鉄筋コンクリート造・地下1階地上13階建で免震工法を採用、24時間対応の救急部門・循環器内科・心臓血管外科を一本化したハートセンターの整備・拡充、GHCU(重症患者治療室)を設置した。
平成20年代後半は医療技術の高度化に伴い、内視鏡下手術用ロボット(ダ・ヴィンチ)等その当時の先進医療機器の導入や先進的な設備を取り入れて、最良の医療の提供を目指している。また平成26年からは、健康や医療に関する情報発信の場として、第1回静岡市民「からだ」の学校を開校し、現在では市街地で年2回、地域版として井川・梅ヶ島・清沢で開催し、多くの市民に親しまれている。

平成20年に完成した東館

平成20年に完成した東館

第1回静岡市民「からだ」の学校

第1回静岡市民「からだ」の学校

地方独立行政法人への移行
平成28年4月1日、「『ひと』こそすべて」の合言葉のもとに、地方独立行政法人としてあらたな一歩をふみだした。同年新設した救急科は、「ことわらない救急医療」をモットーに軽症の初期救急から重篤な3次救急まで幅広く対応し市内トップクラスの6,000件前後の救急搬送を受け入れており、静岡市の救急医療を支えている。
医療を取り巻く環境は厳しく、超高齢化による人口・疾病構造の変化や医師の需給問題、医師の長時間労働等の問題が取り上げられている昨今、多くの課題が山積している。平成31年2月21日、創立150周年を迎えることができた今、激しい社会変動の中にあっても、医療の力で地域を支えることをミッションとして、新たなステージへ飛躍することを目指している。